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配信日時:2009年04月 30日07時30分
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平成の鹿児島緑茶考。

知覧銘茶.com 担当の うえっぶ松(webmatu)といいます。! 
本日もどうぞ宜しくお願いいたします。

当店でもいよいよ一番茶の摘栽が4月13日から始まり、もう2週間目となります。
走り新茶の発送をはじめました。5月4日からは八十八夜の新茶も発送いたしま
す。

さて、前回は「日本のお茶の歴史」についてお話しました、その続編です。
前回永谷宗円はお茶を江戸日本橋の山本屋(現在の山本山)に持ち込み、高い評

価を得て、次第に各地に広まったと書きましたが、この時期に江戸日本橋の茶
商である山本屋が大消費地江戸を舞台に活躍する、丁度その時期に1853年、ペ
リーが来航し、58年には日米修好通商条約が締結されます。

日本は鎖国政策を転換し、開港場となった横浜から、大量のお茶が、輸出され
るようになり、流通経路は激変していきました。

輸出需要が最も多かった生糸でその次がお茶だったのです。茶輸出は日本に商
館を設けた外国人茶商を通じて行われ、当時の明治政府は殖産興業政策の一環

として茶業振興にも力をいれました。明治初期のお茶の生産量は年間3万トン
を超えその9割程が、輸出されて、主たる相手国はアメリカでした。

日本に軍艦の大砲を向けながら開国を迫ったペリーの最初の目的は当時盛んだ
った北太平洋における捕鯨の補給基地を確保する為、だったそうです。

しかし、日本との交易が始まるや、日本からは、生糸とお茶が最大の輸出品と
なり、両者が、初期貿易額の1、2位を占めたています。

また、江戸幕府の崩壊に伴って静岡藩の一大名になった徳川家は駿府へ家臣と
一緒に移住し、幕臣の救済策として当時未開の原野だった牧之原に開墾を進め、
その開発は、各地で展開された茶園開発の典型となりました。

当時お茶が有力な資金作物としてまた、外国貿易の主役で最も利益が大きいと
認識されたからでした。

話は変わりますが、我が南九州市は合併により生産量と生産高でこの今まで全
国一のこの牧之原地区に追いつき、追い越すことができました。

明治末期には、岡倉天心(おかくらてんしん)は英文で、「茶の本」を著して
茶の湯を世界に広く紹介しましたが、この本は現在に至るまで、外国人にとっ
て日本の茶のイメージを形成する役割を担ったみたいです。

また、大正13年に緑茶に大量のビタミンCが含有する事が発見されて、科学
的に注目されただけでなく、薬効が、販売戦略にも大きな役割を担うようにも
なりました。

そうです、あなたはお茶(特にリーフ茶)をは毎日飲むだけで、ビタミンCを
摂取できますし、美容や健康にもいいのですね。、

それでは........また.......。
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  ─* 最後に 〜風は南から〜 *─
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  前回で丁度このどっとこむ通信もおかげさまで一周年を迎えることが
  できました。
  これからも、私もお茶に学びそして、あなたへもお茶の良さをたくさん配
  信してゆきたいと思います、宜しくお願いいたします。 

はしり新茶のご予約承っております(4月13日から発走開始)
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  新茶で季節のご挨拶・・・・ 
〜風は南から〜
  今年の新茶もお楽しみに〜
次回どっとこむ通信もよろしく。